システマ第4日目

man kicking heavy bag システマ日記
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システマ練習への参加もこれで4回目になる。

家での自主練といえば、呼吸の練習くらいのものだ。

歩きながら吸って吐く、吸って吐く。円を描くように切れ目なく吸って吐く。

空手の自主練だったら、毎日正拳突き百本ということになるだろうし、柔道であれば公園の大木に帯を巻き付けて背負い投げの打ち込み百本、ということになるだろう。

ところが、システマにはそのような自尊心を満足させる自主練がないようなのである。

自主練をすると、どこか自分が普通の人ではなく、武術の世界の人になったような甘美な錯覚が得られるのだが、システマはそんな甘い幻想を与えてはくれない。

どんな習い事も、初めの3回目くらいまではまごうことなき初心者であるし、すべてが新鮮に映るし感動もある。ところが4回目くらいになると新たに体験入門の人がやってくるし、自分の進歩のなさに焦りを感じるようにもなる。

この日は仰向けになって、呼吸を繰り返しながら体のパーツを意識しつつ各部位を緩めていくというワークから始まった。

ああ、俺はここもあそこも緊張しているのだな、と気づくことができて面白かった。

しかしいざペアになって、お互いの攻撃をかわす練習が始まると、自分のできなさをまざまざと見せつけられて嫌になってくる。

先輩方は「そんなにすぐにできるようにはなりませんよ」と言ってくれるのだが、正直言って何を目指せばよいのかがわからない。

攻撃する側に回っても、相手をどう打って良いのかわからない。先生は「相手の練習になるように」と言うのだが、その加減というものもよくわからない。

自分が躱す側にまわっても、なおのこと何をどうすればよいのかがわからない。

「ただ呼吸をするだけ」と指導を受けるのだが、私と言えばただ本当にでくの坊のように息をしているだけになってしまい体が動いていない。

この何もかもわからないという状態は、精神的に結構辛い。

この歳になって新しく何かを習うということは確かに新鮮な経験だ。多くの人は三十代くらいでやりたいことを始めており、五十歳前後になれば教える側に回るのだろう。

しかし私は五十歳近くになって全く新しいことを始めている。

この歳になると勉強も仕事も、もはやベテランの領域である。新しい学問であっても、読んで理解して問題を解くというお定まりの学習法をこなせばできるようになるし、何なら資格を取ることもそれほど難しいことではない。仕事に関してはすでに管理職であるし、もはや定年を見据える年齢だ。

そんな私が、武術というまったく新しいことをこの歳で始めている。しかも昔やっていた柔道のようなスポーツとは全く違う。根本から違う。こんなにも、何もかもわからないという状態自体が、本当に久しぶりなのだ。

この感じを例えるなら、一番近いのは大学入試の受験勉強を始めたころに似ている。

模試を受ける。全然問題が解けない。あてずっぽうに書いた答えでたまたま部分点をもらう。偏差値が40くらい。志望校に受かるためにどれくらいの努力をすればよいのか見当がつかない。何がわからないのかすらわからない。

あるいは、医者になって超音波検査を覚える時も似たような感覚があった。超音波検査というのは超音波を発する端子を体表から当てて、内部の構造を見る検査である。端子の当て方には非常に繊細な感覚が要求されるし、見たい画像のところで端子を固定することも難しい。また得られる画像を読みこなすのにも相当の熟練が要る。超音波理論の勉強も大事だが、どちらかというと体で、感覚で覚える技術なのだ。初心者のころは「できるようになる気がまったくしない」という感じだった。

しかし今となっては、おかげで第一志望の大学にも合格し、医者になって超音波検査もそれなりにできる。

なぜできるようになったか?それは先生の言うとおりに練習したから、そして数をこなしたから。

ならばシステマを身につけるためにすることも同じことだ。できるだけたくさん練習に参加し、日常生活においてもlight breathingの練習を続けることだ。

システマという武術は、私がこれまで経験して身につけたものとは全く違う。純粋に知性的なものでもないし、筋トレのような目に見えて合理的なものでもない。単純な技術とも少し違う気がする。それこそ「呼吸」としか言いようのない精妙なものを扱っているのだが、決して怪しげなものではなく熟練者が行えば完全な再現性がある。

その最大にして唯一のポイントがlight breathingであると教えられている。

ならば、愚直にそれを行うのみだ。

システマにおいて目指すものは何なのか?

先生は「シンプルに呼吸するだけ。呼吸が動作を先導する。呼吸が教えてくれる。」

という。

あるいは「相手に敬意を持つこと」

と教える。

「分からなくなったらlight breathingを繰り返す」

とも教える。

私はますます混乱していく。

先生の表情からも苦笑が漏れる。いや、先生の名誉のために言おう、先生は決して皮肉屋ではない。

きっと私があきれ返るほどに硬くて不器用なのだろう。

私が初心者と組もうとすると、先生は慌てて割って入る。上級者を呼びつけ「相手をしてあげてください」と指示する。

これには私も苦笑するのみだった。

だが今日は一つだけ、何かを掴みかけた気がする。

若い華奢な初心者の男性と組んだ時だ。やってやろうとか、どうにかしてやろうという気持ちを捨ててみた。優しく相手の体に触れ、テイクダウンを取ろうとすると、何の抵抗もなく相手が崩れる。

やってやるぞという気持ちで相手に触れると、その殺気が相手に伝わるので相手が反応するし抵抗もする。ところが殺気もなく下手に出るわけでもなく、ニュートラルな気持ちで相手に触れると、何というのだろうか、私にはあまりなじみのない状態が生まれ、相手をコントロールできる、ような気がした。

先生に言わせると、こういう経験、つまり慣れ親しんだ力と力のぶつかり合いという経験ではない、この新しい経験を自分の中に蓄積していくこと、これが上達ということらしい。

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