世の中は人工知能、I o T(Internet of things、つまり現実のモノとインターネットをつなぐこと)、自動運転を含めたロボットの話題で持ちきりだ。
AIの進歩が人間の職を奪うのではないかという危惧は常に論争の種になっている。
とっくの昔にヒトゲノム計画が終了して、ヒトの細胞核の核酸塩基の全配列が明らかになっているのだから、原理的にはヒトに関する全情報が解明されたことになる。
厳密に言えば遺伝子のオン・オフを制御するエピジェネティクスという論点などもあるので、ヒトゲノム計画の完遂をもって人間のすべてが分かったというのは早合点かもしれない。
そもそもヒトゲノムの全塩基配列をぽんと渡されて、「これを読破すればあなたは人間のすべてを理解したことになります」と言われても「いや、無理でしょ」ということになる。
まず、一人の人間が遺伝暗号のすべてを読めるのかどうか分からないし、また読めたとしてもそれが理解につながるのかも疑問である。
「理解するとはどういうことか」という哲学的な問いも横たわっている。
端的に言って、通常の生活感覚で人間のすべてを理解できたという状態を想像できない。
一方、人体解剖学、それも筋肉と骨だけに限定すると、すでに全容が解明されているように思われる。
少なくとも成人の骨の数は206個と決まっているようだ。
筋肉については個体差が多少あるがだいたい600個と決まっている。
それならば歩くとか走るとか投げるとかいう動作の最適解がありそうに思えるのだが、現実にはそうはなっていない。
骨と筋肉という工学的な人体構造に限定しても、これを解明することは極めて難しいことである。
人体の不可思議を解明できるとして、解明にいたるまでには少なくとも二つの壁、二つの難所がある。
一つ目は「個別性の壁」である。
一流ピッチャーの投球フォームは皆違う。
一流ランナーのランニングフォームもみな違う。
人種差もあるし、男女差もあるし、なにより個体差があるからだ。
最大公約数的な解剖学は存在するのだが、「自己の肉体」という個別的な構造物に関して教科書はどこにもなく、自分が自分を通して学ぶしかない。
つまり多数のデータを集めて還元的に答えを見つけようとする科学的な態度は、「自己」という究極の個別性という壁の前に木っ端みじんに砕け散る。
もうひとつは分類学の壁である。
筋肉についていえば上腕二頭筋とか上腕三頭筋というように各筋肉を切り分けて分類して名前を付けて、人体についての知識を我々は整理している。しかしこの分類というのは結構恣意的なものである。切り分け方を変えると別の分類が発生し、別の筋肉名がつく。
もっと極端に言えば、人体の骨格筋すべてをひっくるめて「人間筋」と名付けて、すべてを理解しました、ということにしてしまえばあながちそれは間違いとも言い切れないのだ。
さらにわかりやすい例でいうと、フランス語においては蝶も蛾も「パピヨン」と呼ぶらしい。私にはフランス語の素養がないのでこれ以上の深堀りはできないが、要するに人間は自分の都合のよいように世界を解釈するので、生きる上で蝶と蛾を区別する必要がなければ同じ名前で済ませてしまう、ということなのだ。
だから現代人が「人間の骨と筋肉の構造を解明しました」と威張ってみても、それは現代人が生きる上で必要とされる範囲内での理解に過ぎないということなのだ。だから現代人が思いもつかない動作というものはきっとあるし、そこで初めて認識される筋肉もあるかもしれない。
そう考えると、人体は常に人間の理解を超えた構造を内包している、と言える。
そこで武術が登場する。
徒手や刀剣を用いた格闘は、ほとんどの現代人の日常生活においてまず不必要である。不必要だから、我々は武術の動きになじみがない。
なじみがないから、洗練された武術の動きは我々にとっては極めて意外性が高いのだろう。
そして武術を習うことで、これまで気づいていなかった人体の可能性に気付かされる。
私達は自分の体を理解しているつもりになっているが、私たちの体は常に、私たちの理解以上のものを内包してる。
そう、システマの格言のとおり、「体は頭より賢い」のだ。
人間の知力は確かに他の生物種よりも優れているだろうが、人間が知っていることは実は人間が知りたいことの一部だけ、という限定付きなのかもしれない。
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