生きることは耐えること

high angle shot of a person walking alone in the desert エッセイ
Photo by Alex Azabache on Pexels.com

成田悠輔さんの講演

今を時めく成田悠輔さんの、とある学校の卒業生に向けたスピーチを聴いて、我が意を得たりの思いであった。

要旨をかいつまんで言うと以下のようになる(独断と偏見は許されたい):

成功者と呼ばれる人たちの経験談が巷にあふれているが、彼らはたまたま運が良かっただけと言えなくもない。一方で国とか大義のために自らが築き上げてきたものを喜んで捨てて、にこにこ笑いながら没落していった人たちもいる。後者の人たちは言わば武士道的な精神を持っていたと言える。私たちが学ぶべきものは後者の方にあるのではないか。

成田氏らしい、逆説の中に鈍く光る真理を言い当てた名演説であったと思う。

私が日ごろから思うことと一脈通じるところがある。

私だけが思うことかもしれないが、私は幼少のころから何かを成し遂げなくてはならない、ひとかどの人物にならなくてはならないと思っていた。

意地悪く正確に言うと、そう思い込まされてきた。

社会の落後者にさせまいとする両親の思い、あるいは見栄。または国家有用の人材を育てたいとする政府の意図。小から大まで、様々な思惑が渦巻く中で国民を鼓舞するような根性礼賛の物語があらゆる分野で再生産され続け、純真無垢な子供たちはたやすく洗脳される。

これはかなりうがったものの見方ではあるが、一面の真理でもある。

もちろん親が子を思う気持ちに疑いはないが、それでも「本当の幸せとは何か」ということを世の中の大人たちがどれだけ真剣に考えているのか、疑問ではある。

自分探しの罠

好きなことをして生きていけたら最高に幸せというのは、おそらく多くの人が一度は抱く考えであろう。私もかつてその考えに取りつかれていた。

この考えは否応なく自分は何が好きなのかという「自分探し」に向かう。

しかしこの「好きなことをして生きて行く」という態度には一つの罠がある。

好きだからこそ、何の悩みも迷いもなくそのことに打ち込み、好きだから寝食を忘れて打ち込み、その結果嫌が応にも上達して、いつしか天才とよばれる領域に達し、富も名声も思いのまま。「好きなことをして生きて行く」の典型的な像はまあこのようなものであろう。

しかしこのような生き方をあえて別のものに例えて言うと、薬物中毒に似ている。

自分が好きな薬物を探し求め、とうとう最高の薬物に出会う。その薬物を摂取し続けていれば嫌なことは何もかも忘れてひたすら恍惚の中に埋没できる。薬物中毒であればただ薬物を消費するだけで何も生産しないが、何かを生産する行為そのものに快楽性と中毒性があれば、これほど楽しいことはないように思える。というのも、快楽に操られて何らかの行動を起こした結果、人々が金銭を支払ってくれるものを生産し、自動的に富と名声を手に入れられるのだから。

しかしこのような生き方は、「好きなこと」というドラッグをたまたま手に入れただけに過ぎない。

つまり「好きなこと」がもたらす快楽に操られて、いわば自動的に「価値あるもの」を生産し、結果的に富と名声を手に入れているに過ぎない。

そのようなあり方を実現できている人がもしいればそれを悪いとは言わないが、己に自動的に富と名声を与えてくれる何かを探すことを「自分探し」と称して美化し、ニートの状態を続ける態度は現実的ではないどころか、まさしく夢想的である。

世の中には「楽しそうに好きなことをして巨大な富と名声を得ている」ように見える人々が確かにいると思われるが、そのような天才たちは、我々凡人には想像もできないような思考と努力を重ねているのだと思う。

好きなことを探している時点でその人は天才ではないのだから、できるだけ早く自分が凡人であることを認めることが賢明だ。

成功の要因は運?

現代の学校教育はの基本思想は「努力すれば報われる、幸せになれる」というものであると思う。

最も端的な努力というのは勉学と労働であり、最も端的な幸せというのはお金と配偶者と子供であると思われる。

つまり勉学と労働に励めば(一流大学に入って一流企業に入れば)経済力とハイスペックな配偶者と可愛い子供を手に入れることができるという図式である。

一見すると完璧な方程式である。

そして最近世の中でもてはやされている言葉として、FIRE(Financial independence, early retirement)と億り人(葬儀業者の通称である送り人を文字った言葉。投資で一億円以上儲けた人のことを言う)がある。どちらかというと、勉学も労働も回避してお金だけ儲ければ幸せになれる、という風潮である。

別に私はFIREや億り人を批判しているわけではない。それでその人が本当に幸せならそれで一向にかまわないと考える。

現実にFIREの状態になった人、億り人になった人の中にも「なってはみたけど、あまり幸せではない」と感じて結局仕事を再開する人は多いようだ。

だが、私が言いたいのは「お金で幸せは買えない、労働は尊いものだ」ということではない。

結局のところ、望んでみたところでFIREや億り人を実現できる人はほんの一握りであり、そういう実績を作ることのできる人は、生まれながらに環境が良かったり、頭が良かったり、素直だったり、根性があったり、体力があったり、努力を継続できたり、たまたま運が良かったりした人たちではないのか、という疑問を私は提示したいのである。

努力を否定しているわけではない。しかし努力できるということも紛れまなく才能のひとつのなのである。

であるならば、そういった才能のある人たちの成功体験、成功法を学んだところで、才能のない人たちは同様のことができないので何の成果も生み出せないという結果になるであろう。

現代社会の教義

学校も家庭も不思議なことに、この世の中は実に不平等で理不尽で格差に満ちていてその格差は埋まりそうもないということを教えない。

どちらかというと格差のある社会はあるべき姿ではないから、格差をなくすことに多大なエネルギーを費やそう、そしてそれは可能であるという思想が主流のように思える。思想の主流というよりも、西側諸国が信奉する教義のようにも思える。

格差、貧困、紛争、差別などという不幸の種があって、いずれこの不幸の種が人類の努力によって消滅し、ユートピアが来るという思想である。

もちろんこれらの不幸の種は少ないに越したことはないしそれらを減らす努力は尊いと思う。だが、その先にユートピアがあるという思想そのものには問題がないか?

ユートピア待望論へのアンチテーゼとして、少なくともふたつの問題を私は提起する。

問題1 ユートピアが来ないことが分かったら、不幸の種を減らす努力を一切放棄してよいのか。

問題2 ユートピアがないとして、ディストピアとまではいかないこの現実世界の中で幸せを見出す方法は(ユートピアの)他にないのか。

問題1に対しては、私は断固として「否!」と答えたい。ユートピアが来ないから他を益する行為を放棄するというのは、例えて言えば「どうせ死ぬのだから好き勝手をやってやる」という発想と同じである。

成功が保障されていれば努力するというのは下、成功するかどうかわからないけど努力するというのは中、見返りはないが人のために何かをするというのは上である。

問題2について。幸せというもののひな型が、何の心配もない子供時代の満ち足りた経験に基づいているからこそ人はユートピアを夢見るのではないかと私は推測している。大人になるとおそらく多くの人が悟ると思うが、この世の中には正解というものがない。この宇宙には神様がいて、自分が正しい行為をすれば神様がご褒美をくれるという世界観を何とはなしに子供の頃から持っていたという人が多いかもしれない。私はそうであった。

しかし実は神様はいない。

正しいことをしても誰も見ていないことは多々あるし、頑張ったからといってユートピアはおそらく来ない。

正解がない状態で考え続ける、悩み続けるということは結構しんどいことだ。一瞬一瞬が忍耐と言ってもよい。

忍耐といっても、むち打ちの拷問に耐え続けるという忍耐ではない。さすがにそんな忍耐は続かない。

それは足底腱膜炎の痛みに耐えながら毎日歩いたり走ったりする、そんな忍耐だ。

初老と呼ばれてもおかしくない年齢となった今、人生の味は渋くて苦い。

それでも味わいはある。

子供時代のような、ケーキやキャンディの味ではない。

大人になれば甘いジュースよりも渋い日本茶や苦いコーヒーを好むように、人生の味わいは年齢とともに変わっていく。

入学や卒業、就職などといった明確で整備された目標はすでにない。

経済的な成功はひとつの目標にはなるかもしれないが、所詮は移り気な世間がけしかける類の目標ではないか?本当に自分がやりたいことなのか?

自分の心のままに、客観的な意義もないある意味自分勝手な目標を立ててそれに向かって邁進するという孤独に耐えることは、勇気も要るし忍耐も要るだろう。

ユートピアではない幸せの形

神様もいないしユートピアも来ない。

この世界そのものに実は意味もない。したがって人生には意味はない。

だからといって虚無的な刹那主義に陥るのでもない。

見返りを求めない利他的行為、これこそが愛である。

そして意味のない世界に意味を打ち立てること、これは自分を信じることにつながる。

このふたつを行うことは大人の条件であると私は考えるし、ユートピアとは異なる幸せの形であると考える。

このふたつを踏み行うことは孤独な営みになるし、忍耐が要る。

どちらも甘くはない。渋くて苦い。

だが、孤独なばかりではない。

時に友と呼べる者と出会うし、運が良ければ生涯をともに歩む道連れと出会えるかもしれない。

コメント

Translate »
タイトルとURLをコピーしました