健康論第1回 健康は文化である

a woman doing stretching exercise 健康論
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【WHOによる健康の定義】

健康について話を始めると、テーマが無限にあるので百科事典なみのボリュームになってしまう。

健康とは何かということについては、実はWHO(世界保健機関)が出している定義というものがある。

これは一応議論のたたき台になるので紹介しよう。

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」

「満たされた状態」とはどういう状態なのかという質問は当然想定されるし、それに対する回答は難しいと思うが、健康という概念を「肉体」「精神」「社会」の3つに分けた点は、かなり的を得ていると思う。

【人生30年適正説】

ネットで調べてみると、原始時代から戦国時代くらいまでは、日本人の平均余命は15歳から30歳の間をうろうろしていたらしい。

信頼のおける戸籍データが得られるようになった明治時代になって、ようやく40歳前半にまで伸びた。

令和の現代においては男女ともに80歳を超えている。

大昔は乳幼児死亡率が圧倒的に高かったので平均余命をぐっと押し下げてしまうが、大筋においては肉体の盛りを過ぎると死亡率はもう一度上昇すると見てよいだろう。

人間の生殖可能年齢は男女ともに概ね十代前半から始まる。

つまり十代前半で次の世代を残せるということである。

次の世代が育って、またその次の世代を生むのにやはり十数年かかる。

ということは、生物学的には人間は30歳くらいで孫を持つようにできていることになる。

乱暴な言い方かもしれないが、孫ができるくらいまで生きられたら、その人間は共同体における役割を十分に果たしたと言ってよさそうだ。

30歳になるまでに致死的な疾患にかかることは稀である。

何が言いたいかというと、人類が誕生した当初においては、とりたてて健康に気を使わなくても十分に共同体において生産活動を行い生殖活動を終えて死んで行けただろう、ということである。

衣食住において自立し、生殖活動を開始できる年齢(つまり成人とみなされる年齢)が15歳程度であれば、この30年間という「黄金の時間」を有効活用できるというわけだ。

これが私が仮に想定した「人生30年適正説」である。

念のために言っておくが、私は「人生は30年で終えるべきである」などと言っているのではない。

 

【人生30年適正説が提示するもの】

さて、ここでWHOの健康の定義に話を戻そう。

もしほとんどの人間が15歳前後で子供を作って30歳前後で死に、その間に3人子供を残すことができれば、理論的には人口は増える。

つまり持続可能な共同体を維持できる。

しかもほとんどの人間は30歳までに、感染症を除けば致死的な疾患には罹らない。

感染症についてはもちろん、うがい・手洗い・マスクという基本的かつ簡便な予防法はあるが、今回の新型コロナウィルスの流行において多くの人が体験したように、しっかり予防しても罹るときは罹るし、近代以前にはほとんどの人間は感染症で死亡していた。

感染症は病気の中でも少し特殊なので、本稿の議論からは外しておく。

ということで、幼少期を乗り切ったほとんどの人間が30歳までに人生でなすべきこと(共同体の維持、つまり子孫を残すこと)を完遂できるとしたら、原始時代の人間(少なくとも成人)はWHOの定義する健康を体現できることになる。

少なくとも、人生の大半の期間において「健康」でいられる。

【ライフサイクルと初産年齢】

ライフサイクルというのは、生まれて、成人して、結婚して、子供を作って育てて、死ぬまでのサイクルのことである。

15歳で成人してほぼ同時に結婚・出産して30歳で死ねば、少なくとも肉体的にはもっとも効率よく安全に出産、子育てができるだろう。

ところが現代のように成人・結婚・出産年齢が後ろのほうにずれてくると、実はたくさんの問題が生まれる。

なぜならば、寿命が延びても生殖可能期間(特に女性の)は変わらないからだ。

大雑把に、女性の生殖可能期間を15歳から40歳と仮定した場合、ぎりぎりの40歳で子供を産むと、母親の健康も損なう可能性があるし、胎児にも影響が出ることがわかっている。

とはいえ、時代が進むにつれて文明の進歩の度合いは増し、初婚年齢も上昇しつつあるのは避け難いことである。 

【文明の進歩が人類の存続を脅かす可能性】

文明が進歩するほど、社会生活を営むために身につけなければならない知識と技術が増える。

現代日本における初婚年齢の平均は男性で31.0歳、女性で29.5歳であるという(2022年)。

大学を卒業して就職して、仕事を覚えて、ある程度の資産を蓄えるとなるとこれくらいの年数が必要になるということであろう。

医学が進歩してさらに健康寿命がのび、定年が60歳から65歳、さらに70歳と伸び続けると、若い人たちが社会の中枢になかなか参入できない。

70代の幹部が要職を独占し、活力に溢れて質の高い仕事をし続けるからだ。

そうなると、社会において一人前とみなされる年齢がますます高くなる。

ところが。

前節でも言及したように、人間の生殖可能期間は変わらないのである。

初婚年齢の平均が50歳にまで延びれば、人類は絶滅するだろう。

人類絶滅を阻止するために精子保存・卵子保存の技術がより進歩するかもしれない。

将来的には、高所得者層が高齢で結婚して、低所得者層の代理母が子供を産むというシステムが構築されるかもしれない。

美容技術も発達し、高所得の男女は50歳になっても美貌を維持しているかもしれない。

もちろんそのような社会が健全であるとは言い難い。 

【養生思想】

話がかなり空想的になってしまった。

歴史の常ではあるが、未来は常に私たちの想像を超えるから、過剰に心配する必要はないかもしれない。

ただ一つ言えることは、文明の進歩のおかげで私達の寿命は「当初の想定」よりも随分と長くなったしこれからも長くなる可能性があるということである。

少々乱暴な言い方ではあるが、特に健康に気を遣わずとも、めいっぱい体を動かして生産活動に携わり、食べられるときにお腹いっぱい食べ、気に入った異性と交わり子供を儲ければ、健康な人生を維持できた時代は終わったのである。

確実に体力が衰え始める年齢を仮に30歳とすると、私たちは人生百年時代において、肉体が衰える一方の70年間を、肉体の維持調整に細心の注意を払いつつ生きて行かねばならないのである。

実は養生思想というものの誕生はきわめて古く、二千年以上前の古代中国の医学書である『黄帝内経』にはすでに養生に関する記述がある。

原始時代が終わり、文明の誕生とともに『養生』の概念が誕生したのかもしれない。

実は、多くの人は養生の基本をわきまえている。

・腹八分

・十分な睡眠

・適度に運動する

・飲酒は適量

しかし、これがなかなかできないのである。

【養生が難しい理由】

なぜ養生の実践が難しいのか。

それは本能に反するからである。

野生動物や原始時代の人間は、食べたいときに食べたいだけ食べても太れない。

そもそも手に入る食糧が十分とは言えず、多くの時間帯で飢えていたからである。

生活のためには体を酷使せねばならない。

眠る時間を削る理由はほとんどない。

酒はそもそも存在しなかった。

むしろ、食べたいときに食べたいだけ食べることで生存の可能性を上げていた。

体を動かさないと食べ物にありつけなかった。

体を動かせば自然に眠くなる。

ところが現代においては、食べたいだけ食べれば糖尿病や高血圧を始め致死的な生活習慣病に罹る。

食べ物を得るために体を動かす必要がない。

必要のないことはしないのが生物の鉄則である。

それなのに仕事は忙しいので眠る時間が減る。

このように現代社会においては、意識的に、もっといえば本能に反して、養生法を実践せねばならない。

だから養生は難しいのである。 

【文化は本能を克服する?】

本能に反して何かをすることは難しい。

たとえばAという行為は一時的に快楽をもたらすが、中長期的には肉体を害したり、共同体から制裁を加えられたりして不都合が起きるとしよう。

そうすると、人間は一瞬の快楽を求めてAを行いそうになる衝動を抑えて、デメリットを避けるためにAという行為をしないよう努力する。

Aの本質は「資源の入手」である。

食糧、異性、快適な場所など。

資源には限りがあるから、必然的に奪い合いになるし、公平性を保とうとすれば共同体における序列に応じて分配するしかない。

Bという行為は、慣れないうちは上手くできなかったり、体を痛めたりして不愉快だが、上手にできるようになると大きな快楽をもたらしてくれるとしよう。

Bの実例は実はたくさんある。

スポーツ、芸事、学問。

人間が文化とよぶもののほとんどすべてはBである。

そしてBはほぼ確実に健全な楽しみと健康をもたらしてくれる。

いかに早くあるレベルまで到達するか、そしてそのレベルに到達するまでの苦痛を最小化するかが、Bを永続する鍵となる。

文化的な行為においては、資源よりも本人の技能に依存する割合が圧倒的に大きい。

文化というものは、本能による衝突を回避する機能を持つとも言えよう。

ただし、文化的行為は本能の赴くままに行えばすべて上手くいくわけではないので、その習熟のためには意志の力による制御が必要となる。

【健康とは文化的営みである】

養生の基本は

・食欲や性欲など欲望の制御(なくすことではない)

・運動

・文化的行為

・円満な人間関係

にまとめられそうである。

これらを実行しようとすると、意志が必要になる。

健康であるためにまず必要なことは、健康であろうとする意志である。

次に必要なことは正しい知識である。

知識は学問と言い換えることもできる。

健康であるためには、意志と知識が必要なのである。

つまり、健康であろうとすることは、極めて文化的な営みなのである。

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